「うちの会社の離職率は、高いのか低いのか」——ベトナムに進出する日系企業の経営者・人事担当者から、最もよく聞かれる質問のひとつです。しかし多くの場合、その答えは「なんとなく人がよく辞める気がする」という感覚で語られてしまいます。
離職は、感覚ではなく「数字」と「構造」で捉えるべき経営課題です。本記事では、ベトナムの離職率に関する各種調査データを出典とともに整理したうえで、自社の離職を診断する視点と、データから導かれる具体的な打ち手まで踏み込んで解説します。読み終えたとき、「自社の離職はどこに問題があり、次に何をすべきか」が見える状態を目指します。「離職防止・人材定着」シリーズの第1弾です。
1. ベトナムの離職率の全体像
ベトナムは、アジアの中でも離職率が高い国として知られています。人事コンサルティング会社Anphabeが実施した調査「The Leavers」(2019年発表)によれば、ベトナム全体の平均離職率は24%に達していました。一方、企業が健全とみなす理想的な離職率は10%前後とされており、実態は理想の2倍以上という状況です。
なお、この24%は2019年発表の調査に基づく数値で、最新の水準を示すものではありません。ただし、ベトナムの労働市場が構造的に流動性の高いことを示す象徴的な数値として、現在も広く引用されています。
ベトナム人の転職観
ベトナムでは転職=キャリアのステップアップというポジティブな認識が一般的で、転職に対する心理的抵抗が日本より格段に低いのが特徴です。実際、Talentnet-Mercerの調査では64.8%が半年以内に転職を検討しているとされ、労働市場全体の流動性の高さがうかがえます。「目先の利益」を重視し、給与格差に敏感である点も、離職率の高さを支える文化的背景となっています。日本のような「長く勤めるほど評価される」という前提は、そのままでは通用しないと考えるべきです。
2. 企業タイプ別の離職率の差
離職率は企業のタイプによって大きく異なります。人事コンサルティング会社Talentnetの2025年のデータによれば、企業タイプ別の自発的離職率(従業員都合による退職)は以下の通りです。
| 企業タイプ | 自発的離職率 | 出典 |
|---|---|---|
| 多国籍企業(MNC) | 12.8% | Talentnet 2025 |
| ローカル企業 | 20.3% | Talentnet 2025 |
| 市場水準以下の賃金の工場 | 年30〜40% | Talentnet |
多国籍企業の離職率が12.8%と比較的低い一方、ローカル企業は20.3%と、およそ1.6倍の開きがあります。さらに深刻なのが製造業の工場で、市場水準を下回る賃金を提示している工場では年間30〜40%が離職するケースもあります。実際、Talentnetの調査では製造業の65%が「人材の定着」を最大の課題と回答しています。
重要なのは、この差が「業種の宿命」ではないという点です。MNCとローカル企業の8ポイント近い差は、報酬・キャリア制度・マネジメントといった制度設計の差から生まれています。裏を返せば、MNC並みの制度を整えれば、離職を抑えられる余地があるということです。日系企業はこの中間に位置することが多く、伸びしろは大きいと言えます。
3. 給与帯による「逆転現象」
「給与を上げれば辞めない」という発想は、ベトナムでは必ずしも通用しません。Anphabeのデータには、日系企業が見落としがちな給与帯による逆転現象が示されています。
| 給与帯(月給) | 離職率 | 出典 |
|---|---|---|
| 1,000万VND以下(低給層) | 29% | Anphabe |
| 8,000万VND超(高給層) | 約50% | Anphabe |
月給1,000万VND以下の低給層の離職率が29%であるのに対し、月給8,000万VNDを超える高給層の離職率は約50%と、むしろ高くなっています。高給層はスキルと市場価値が高く、常にヘッドハンターから引き合いがあるためです。実際、高給層の65%が年3回以上ヘッドハンターと接触しているとされます。報酬だけでは高給人材をつなぎ止められないという構造を、まず理解しておく必要があります。
4. なぜ辞めるのか — 離職理由トップ3
ベトナムの従業員が離職を決める理由(Adecco「Vietnam Salary Guide 2024」)は、上位3つが僅差で並びます。
| 順位 | 離職理由 | 割合 |
|---|---|---|
| 1位 | キャリア展望・成長機会 | 58% |
| 2位 | 報酬・福利厚生 | 57% |
| 3位 | 給与 | 55% |
注目すべきは、給与(55%)よりもキャリア展望・成長機会(58%)が上位に来ている点です。「辞めるのは給与のせい」という思い込みは、対策の方向を誤らせます。特に若い世代でこの傾向は顕著で、9X世代(1990年代生まれ)では現状に満足していても17%が1年以内に離職予定と回答しています。また、勤続2年未満の層が最も離職しやすいというデータもあり、入社初期の定着施策が重要であることがわかります。
ここまでのデータを整理すると、ベトナムの離職には3つの軸——キャリア・報酬・入社初期——が絡んでいることが見えてきます。この3軸が、後述する打ち手の骨格になります。
5. 離職を「構造」で捉える — 診断の視点
ここまで見てきたデータを、実際の打ち手につなげる鍵が「構造で捉える」という視点です。多くの日系企業は「年間離職率20%だから、まあ普通だろう」と全体の数字だけで判断してしまいます。しかし、これは最も危険な見方です。全体20%という数字の裏には、しばしば「特定部門40%」「入社1年目50%」といった偏りが隠れているからです。
離職率は、少なくとも次の3つの軸で分解して見るべきです。
- 部門別:特定の部署・ラインに離職が集中していないか(マネジメントの問題を示唆)
- 勤続年数別:入社1年目・2年目に集中していないか(採用・オンボーディングの問題を示唆)
- 給与帯・職位別:どの階層が抜けているか(報酬競争力・キャリアパスの問題を示唆)
なぜここまで分解するのか。それは、離職が安くないコストだからです。Talentnetによれば、工場における1人あたりの離職コストは給与の3〜5ヶ月分に相当します。Mercerの2025年の分析でも、離職コストは職種により給与の0.5〜1.5倍とされます。採用費、教育・研修費、生産性低下、引き継ぎ工数などが積み重なるためです。
「全体20%だから普通」の落とし穴
退職者数を正確に集計せず、離職を「個人の都合」で片付けてしまう日系企業は少なくありません。しかし、どこに問題があるかを特定しなければ、限られた採用・育成リソースを優先的に配分できません。全体の平均値をならして安心するのではなく、「最も出血している箇所」を特定することが、次の打ち手の起点になります。
6. データから導く3つの打ち手
離職理由トップ3(キャリア・報酬・入社初期)に対応させて、具体的な打ち手を3つ提示します。いずれもデータ根拠と実例を添えた、明日から検討できる施策です。
打ち手① キャリアの見える化(離職理由1位=キャリア58%への対応)
最大の離職理由「キャリア展望」に対しては、成長の道筋を目に見える形にすることが直接の対策になります。具体的には次の3点です。
- デュアルラダー:管理職トラックと専門職トラックを同格で用意する。全員が管理職を目指せるわけではないため、専門性を極める道にも同等の処遇・地位を与える
- 昇進基準の透明化:必要スキル・期待成果・最低勤続年数を明文化する。基準の透明性そのものが定着に効くことは、ハノイの208名を対象とした調査(NIC Global 2025)でも示されている
- 個人育成計画(IDP)と定期キャリア面談:一人ひとりに成長目標を設定し、定期的に上司と対話する場を設ける
効果は数字にも表れています。構造化された育成プログラムを持つ組織は、非導入企業と比べて定着率が+34%(Talentnet 2025)。また、メンター制度や実践的な学習機会が「定着理由」として挙げられた割合は71%(Reeracoen)に達します。
日系特有の落とし穴 — 「ガラスの天井」
日系企業で見落とされがちなのが、駐在員によるトップダウンが続き、ローカル管理職の昇進が限定される構造です。学術研究では、駐在員比率が高い企業ほどローカル人材が離職しやすい傾向が指摘されています。「上が全員日本人で、自分はここまで」と感じさせてしまえば、優秀な人材ほど早く去ります。ローカル人材の幹部登用と権限移譲こそが定着の鍵です。実際、大阪のNakano社は外国人スタッフの「ガラスの天井」を撤廃し、登用の道を開いた事例として報じられています(Nikkei Asia)。
打ち手② 報酬の市場競争力と透明性(離職理由2位57%・3位55%+逆転現象への対応)
報酬は、離職理由の2位・3位を占める重要因子です。ただし前述の逆転現象が示す通り、金額を上げるだけの勝負に持ち込むと高給人材ほど引き止められません。鍵は「市場水準の把握」と「透明性」です。
- 市場水準の把握:Talentnet-Mercerの報酬調査などでベンチマークを取る。昇給率トレンド(2024年はローカル6.3%/MNC6.5%)と自社を比較し、乖離を可視化する
- 給与テーブル・昇給ロジックの透明化:どう評価され、どう上がるのかを見せる。透明な基準はボーナス額そのものより定着判断に重要とされる(NIC Global 2025)。金額競争に陥らずに引き留められる
- 13ヶ月目給与・テトボーナスの位置づけ:法定義務ではないが、実務上は強力な定着ツール。2026年の全国平均テトボーナスは1人あたり869万VND(前年比+13%)(内務省)。市場水準を下回れば、テト後の離職リスクが一気に高まる
- 任意医療保険:従業員あたり年US$300〜1,200が標準的。中間層以上の定着に効く福利厚生の代表例
福利厚生の定着ROI — 実例で見る
報酬は現金だけではありません。「働き続けられる環境」への投資が、大きなリターンを生んだ実例があります。
- Evervan Factory(ビンズオン省の製靴工場):社内保育園への投資により、月次離職率を4.1%→約2%へ半減。生産性向上と教育費削減で年間約53.7万USDを節約した(Talentnet/IFC)
- Taekwang Vina(製靴大手):保育施設の設置で無断欠勤を20%削減し、離職も抑制。同社では欠勤コストが年間約100万USDに達しており、その2割を圧縮した(Talentnet/IFC)
なお、駐在員とローカルの給与格差は、隠すほど不信を生みます。格差の合理的な説明と、ローカル人材の処遇を段階的に引き上げる現地化ロードマップを示すことが、透明性を担保しつつ納得感を高める方法です。
打ち手③ 入社初期の定着(勤続2年未満・9X世代への対応)
離職は「入ってすぐ」に集中します。AONの2025年の分析では、自発的離職の34%が入社6ヶ月以内に発生しています。つまり、最初の数ヶ月が定着の勝負どころです。しかも、この期間の投資は費用対効果が高い——Gallupの2025年の調査によれば、最初の90日に構造化されたフィードバックを行うと、3年以上定着する確率が2.5倍になります。
- 30-60-90日オンボーディング計画:入社30日・60日・90日の節目で、期待値のすり合わせと定期フィードバックを行う。「何を期待されているか」を早期に明確化する
- バイリンガル・バディ制度:新入社員に先輩を1人つけ、業務と生活の両面を支援する。日系製造業(ビンズオン省)では、この仕組みで早期離職を28%→9%に低減した事例がある(Reeracoen)
- 若手の学習機会:ダナンのIT企業は月次の「Learning Fridays」で離職意向を40%減らした。学びの機会そのものが定着インセンティブになる
- 入社前の職務明確化:入社前にジョブディスクリプションを明確に伝えることが、特にGen Zの定着に効くとされる。「聞いていた仕事と違う」を防ぐ
言語・文化の壁がある日系企業では、バディ制度の効果は特に大きくなります。「相談できる相手がいない」という孤立が、早期離職の隠れた原因になりやすいためです。
7. 打ち手を「続ける」仕組み
3つの打ち手は、一度実施して終わりでは効きません。前述の通り、ベトナムは64.8%が半年以内に転職を検討する高流動市場であり(Talentnet-Mercer)、離職意向は短いサイクルで変動します。半年前は満足していた社員が、テト明けには市場価値を試したくなる——これが日常です。だからこそ、定点観測の仕組みが必要になります。
継続的なモニタリングの基本は、次の3点セットです。
- パルスサーベイ:短い設問を高頻度で実施し、満足度・エンゲージメントの変化を追う
- ステイインタビュー(在職者面談):辞めてから聞くのではなく、在職中に「何が続ける理由で、何が不満か」を聞く
- 退職者インタビューの分析:個別の感想で終わらせず、部門・勤続・給与帯で傾向を集計する
あわせて、離職の「予兆」を捉える視点も持っておきたいところです。一般に、残業時間の急増、勤怠の乱れ、評価の停滞、市場水準との給与乖離などが予兆となりうると言われます。これらはあくまで仮説として、自社のデータで検証していく姿勢が大切です。定点観測すべき指標は、部門別・勤続別・給与帯別の離職率に加え、福利厚生の利用率、社内昇進率などが挙げられます。
8. まとめ — 感覚から「データと構造」へ
ベトナムの離職防止は、「なんとなく人が辞める」という感覚から、データと構造で捉えるアプローチへと発想を切り替えることから始まります。本記事のポイントを整理します。
- 診断:全体の離職率だけでなく、部門別・勤続年数別・給与帯別に分解して「どこが出血しているか」を特定する
- 打ち手:離職理由トップ3に対応し、①キャリアの見える化 ②報酬の競争力と透明性 ③入社初期の定着、の3方向で手を打つ
- 継続:パルスサーベイ・ステイインタビュー・退職者分析で定点観測し、変動する離職意向を追い続ける
忘れてはならないのは、給与を上げるだけでは定着しないという事実です。高給層ほど離職する逆転現象があり、離職理由の1位はキャリアです。処遇改善は必要条件ではあっても、十分条件ではありません。
すべての出発点は「人事データの一元管理」
診断・打ち手・継続のサイクルを回すには、まず人事データの一元管理が前提になります。従業員情報・勤怠・給与・評価が給与ソフトやExcel、紙の申請書に分散していると、離職率を部門別・勤続別・給与帯別に分解することも、予兆を捉えることもできません。データが一箇所に集約されて初めて、離職は「感覚」から「数字」に変わります。
ベトナムの労務実務に対応したHR管理システム「EST」は、勤怠・給与・社会保険・労務に加え、人事評価・目標管理・採用・研修育成までを一つのプラットフォームで管理します。本記事で示した打ち手のうち、離職理由1位である「キャリアの見える化」——評価・育成・キャリアパスの運用——を、仕組みとして継続的に回せるのが強みです。
さらにESTは、蓄積した勤怠・人事データをAIが分析し、離職リスクの高い従業員を早期に検知する「HR Insight」を搭載。本記事で「予兆」として挙げた残業の急増・勤怠の乱れ・有給の低消化といった要因を定量的なリスクスコアとして可視化し、部門別のリスク傾向や高リスク者、過重労働(バーンアウト)の兆候まで提示します。
人事データの一元管理を土台に、タレントマネジメントとAI離職分析までをカバーする——感覚に頼った離職対策から、データに基づく継続的な人材定着マネジメントへ。まずは自社の離職を「数字」で捉えるところから始めてみてください。
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